4/30/2013

前進

20.April.2013     Yokosuka.Kanagawa.Japan




仏教の教えには“七”という数字が重要らしい。
それには、こんな話が。

お釈迦様が亡くなり、三~四日後に弟子達が荼毘(だび)に付そうとしたが、薪にどうしても火がつかない。

ところが、遠方にいた最後の一人の弟子がお釈迦様にのもとに帰り、弟子が全員揃ったところで、ようやく火がつき、荼毘に付されたということだ。
それが七日目。
故に、この七を基準に考えて法要は行われることになる。

四十九日は故人が亡くなられてから七週間後。

それまでの期間を仏教では“中陰(ちゅういん)”または“中有(ちゅうう)”と呼び、生前の行いに対する査定期間であり、天国に歩いて行く途中なのだそう。
つまり、“生の世界”と“死の世界”の間を指す。
宗派により若干の違いはあるが、故人は中陰期間中どこでも自由に出歩くことができ、例えば家の中にいたりするという考え方もあるようだ。

そして、四十九日目に天国に到着するとされ、遺族は忌明けとなる。




自分というのは、弱いものだとつくづく感じる。

“時が止まったまま”という言葉は、自らと世の中が乖離してしまった状態を本当にうまく表してると思う。

僕は耐え難い衝撃が起こった時、目前のことが映画のように見える錯覚に陥った。

全てが演出に見え、デジャヴに思え、感情がすっ飛んでしまい、どういう反応をしたらいいか分からなかった。
「こんなシーンは映画で観たことあるじゃないか」
「みんな何で泣いてるんだ?」
「こういう時は泣くのがいいのか。でも、なかなか涙がでない」
その後はようやく実感が出てきたものの、体の周りの空気はねっとり重く、身内以外の人々との間には何とも言えない空間の歪みが今も存在し続けている。

でも、世の中はそんな自分にはお構いなしにどんどん動いていく。

いつまでも悲しみにくれるだけで済めば良いが、特別扱いされるわけもなく、このままでは自分も潰れてしまう。
だから、何かを拠り所にして区切りをつけてそれに耐え、日常に戻れるようにしていかなければならない。

拠り所とは、自分を納得させる論理にあたる。

思う節がいくつもあるが、それが何なのか分からない。
そこで、仏教のような信仰の教えであったり人から見聞きすることと、自分の思いを結びつけて一つずつ解決していく。
とてもつらい作業だ。

故人を弔う一連の儀式は、遺された者たちの心の整理をつけるきっかけを作る、という側面からも重要なものだと思う。

僕は“故人は中陰期間中どこでも自由に出歩くことができ、例えば家の中にいたりする”
という考えのもと、今までいつも自分の横に彼がいると思い続け、四十九日を迎えた。
この日を過ぎれば彼は家を離れ、天国の住人となる。
これで一段落。
でも、今はとても寂しい。

次に来るのは卒哭忌(そっこくき)。

百ヶ日ともいう。
“哭=泣く”のを“卒=終わる”日だ。