3.Jan.2013 Tsuchiura.Ibaraki.Japan |
正月に薪ストーブの為の薪を割りながら従兄(いとこ)と話す。
僕はチェーンソーで丸太を適当な長さに切り、従兄が斧で割る役のはずだった。
でも、以前に斧が壊れてしまい、探し回ったものの良いものは見つからなかったと従兄に話すと、室町時代までは楔(くさび)を使って木を割り、材木を作っていったと言う。
早速、壊れた斧を楔のようなものに作り直して使ってみると、なかなか調子がいい。
こんな方法があったんだなぁ。
普段当たり前だと思っていたものがなくなった時に、初めて気付いたり、そこから深く考え直すことになるのは誰にでもあること。
この時は法隆寺の修復などを手がけた宮大工、故・西岡常一氏の言葉をふと思い出す。
西岡氏によると、室町時代から建築が良くなくなってきたという。
そうだよな、そういうことだよな、、、
室町時代は発達した道具が広く普及した時代らしい。
その代表格が大鋸(おが)。名前の通り大きな鋸(のこぎり)だ。
二人がかりでどのような素性の木でも木を縦に切っていくことができるこの道具のおかげで、製材加工技術は飛躍的に発展した。
「大鋸屑(おがくず)」という言葉は、大鋸を挽いた時に出た木屑に由来する。
また、この道具のスケールの大きさから「おおがかり」という言葉も派生していくことになったようだ。
一方、それまで使われてきた楔は木を切るというより割っていく。
うまく割るには木の素性を知らなければならない。
西岡氏の言う室町時代から建築が良くなくなった原因はの一つは、道具による加工技術の発達と反比例して木の性質を見抜けなくても、形だけはできてしまうようになったからだという主張。
つまり、作り手は木の本質を見抜く力をなくしてしまったわけだ。
さらに、仕事を頼む側はもっと早く、安くと言う。
全くその通りだ。
けれど、今僕はこんな事を書いてるわけだから、この事実を当たり前だと知識や経験値として知ってはいても、木の本質どころの話ではない。
チェーンソーを振り回すとんでもない奴だということになる。
でも、別にチェーンソーを使うことや楔で木を割らないから100%悪いかと言えば、それもまたなかなか難しい気がする。
我ながら、知らない間に色んなものの本質を見失っていることが怖いと思う。
そうだよな、そういうことだよな。
色んなことが頭を巡る。
木は切るだけじゃなくて割るって方法もあるんだな。
形を作るってことは本質を見抜くってことがあるんだな。
モノを創るってのは数字をみるってことじゃないんだな。
今年の抱負どころか、永遠の抱負を正月から考えることができたんだから、いい年始めだ。