8/15/2013

終の空

15.Augst.2013     Lake Kasumigaura.Ibaraki.Japan




僕の地元は戦争時の面影を色濃く残す土地だ。

それは、1920年に霞ヶ浦海軍航空隊が作られたことに始まる。
広大な原野に、当時東洋一と呼ばれた国際的な飛行場が作られ、
海外からはドイツの大型飛行船ツェッペリン号、アメリカの飛行家リンドバーグ夫妻などもこの地にやってきた。
また、同時に路面電車が開通して海軍の町として賑わい、花街は今でも残る。
バスに乗っていると“武器学校前”という名のバス停があるが、
よく考えると結構物騒な名前だ。
幼い頃は、そんな事全然気付かなかったけどね。

終戦の日。
近所の「予科練平和記念館」に行った。
“予科練”とは、“海軍飛行予科練習生”のこと。
第一次大戦後、戦争には航空機が重要な要素となることに伴い、
旧海軍は航空兵を養成しようとする。
そして、1940年に土浦海軍航空隊を設置して教育したのが僕の地元
ここには、約70倍の超難関を突破した14〜17歳の少年達が全国から集まった。
空に憧れて来た者、経済的事情から家計を支える為に出世を目指して来た者。
それぞれの想いを抱いてこの地に来たことが記録にみられる。

展示には、写真家・土門拳がこの地に泊まり込んで撮影した写真がある。
少年達が過酷な訓練を受けたことは、説明を受けなくても鍛え抜かれた身体から容易に想像できた。
その中に、グライダーの授業を写した一枚が。
広い空を滑空するグライダーを、一面の野原に立つ少年達が見上げている。
まるで、少年達の夢をそのまま写真にしたようだ。
おそらく、この時間だけは誰もがすっと力が抜け、
辛さも忘れて、ただ自分も空を飛びたいと思ったことだろう。

だが、少年たちの想いとは裏腹に、戦況は悪化。
やがて、最後の手段である“特攻”が行われる。
最初の特攻メンバー5人のうち、2人がここ土浦海軍航空隊からだった。

予科練の卒業生の犠牲者は8割にのぼる。
その数約1万9千人。
また、航空機実験の為に犠牲になった動物達もいた。
彼らが残した言葉を見ていると、いつの間にか腹に力が入り、奥歯を噛み締めてしまうほど心に迫るものがある。



好きでなったがパイロット
娑婆(しゃば)の五十を三十で暮らす
左様奈良(さようなら) 



帰り道、いつも眺めている霞ヶ浦の水面に立つ無数の竹棒が、
そうした彼らの墓標に見えた。